【その四】土方に死をもたらした近藤の死

 国立歴史博物館館長の宮地正人が2003年6月に日野で講演をした時の講演録に本人が加筆修正し、日野のNPOが発行したテキストがある。おそらく宮地はこのテキストを基にして『歴史のなかの新選組』(岩波書店)を執筆したのだろう。2004年発行された同氏の『歴史のなかの新選組』に、このテキストの内容は酷似している。
 しかし、『歴史のなかの新選組』にはない以下の様な内容もあり、読後ホロリと涙してしまった。

 それぞれの地域の人々がいかに政治的な危機感をおぼえ、自分で政治行動をしなければいけないと思ったかという、一つの例としての関東の若者の典型的な行動だと思います。これだけ幕領が多く、旗本の相給地が多い所の若者のあのような発想、朝廷と幕府をあくまで一体化しながら新しい道を切り開きたいという発想。これについて非難することはひとつもないと思います。
<中略>
そしてこの新選組というのはやはり関東の人が集まって作り、最後に土方が「近藤を死なせた以上、この日野に生きて帰ることはできない。」と。帰りたくても帰れなかった人々をもうみ出したのです。関東の若者の、政治的な軌跡をみごとに表現している組織だったのです。



 これは、当方が新選組に対して持っている認識とほぼ同じである。残念なのは、上記のようなことを宮地が言うまで、象牙の塔近辺からは、この様な声が漏れ伝わって来ることがなかった点だろう。
 ホロリとしたのは、勿論、帰りたくても帰れなかったのくだりである。土方は言わずもがなだが、中島 登や松本捨助が明治になってから何故多摩以外の地域に住んだのか考えれば自然と頷ける。
 当方はこのHPで再三、近藤や土方ら試衛館メンバーの浪士組応募は決して私益追及が動機ではないと書いてきたが、それだけに、結果として、土方のように「死」、あるいは中島のように「故郷を離れて暮らさねばならない後生」というのは、胸にこみあげてくるものがある。

 では何故、そうなってしまったのだろうか?それは近藤 勇という組織(新選組)のトップを結果的に死に至らしめてしまったという事と同時に、流派の宗家、流派のトップを死なせてしまったという側面があるからだろう。
 普通、日本の社会ではトップは死なないケースが多い。二番手、三番手が責任を取るのだ。政治家の事件などで秘書が自殺する、そのような責任の取り方が、古来、封建的な日本のシステムだった。これは佐高信の本などでも、佐高にケチョンケチョンに攻撃されているシステムでもあるが、実際、現代においてもこのシステムが罷り通っている事は、新聞記事やテレビニュースをチェックしている者ならよくわかるであろう。
 トップが消滅するという事は、そのトップが君臨する組織そのものが消滅する危惧をはらむ。ゆえに封建社会ではトップに責任を取らせないようにする事が臣下・部下としての力量だったわけである。酷な言い方をすれば、トップを死なせてしまったということは、ある意味、ダメ臣下、ダメ部下という事なのだ。
 そういった封建的価値観からすれば、土方が「故郷に帰れない=死に場所を探す」というのは当然の事かもしれない。時々土方ファンで「土方は最後まで諦めず生きようとしていた。」と主張する方がいるが、もし土方がその通りの人物だったとしたら、およそ封建時代における士道を心得ていた人間とは言えなくなってしまうのではないか。
 小島鹿之助(為政)も「死に場所を求めていた」説の立場をとっているが、土方の実際の心情はわからないにしても、小島的には土方を封建的な道徳や士道に則した人物であったとしたかったのだと思える。それが土方の名誉を守るためであったことも容易に想像出来る。

   勿論、中島登や松本捨助が故郷以外の地に住んだのも、「朝敵」「賊軍」というレッテルゆえに親族に迷惑がかかる事を懸念したためでもあろうが、地域の支配層が満身をもって協力し送り出した故郷の流派の宗家を、死に至らしめてしまった事は、彼等にとって「朝敵」というものとはまた別種の負い目となってしまったのではなかろうか?
 例え「朝敵」だったとしても、もし近藤が生きていたのなら、違った生き方があったかもしれない。土方も蝦夷地には行かなかったかもしれない。改めて、トップが死ぬという事の重大さに気付く。
それと同時に、近藤や土方は死んだが、徳川幕府のトップも会津藩のトップも生き残った事に思いを廻らす。そして、孝明天皇が死んだ事にも思いを廻らす。思えば、孝明天皇というトップの死が、「朝敵への道」の第一歩だった。新選組が命を賭けて支えた「朝廷と一橋・会津・桑名連合」の崩壊を導くものだった。

 話を戻す。当方は「土方は近藤斬首を知って以降、死に場所を探していた」という見方(前出の小島鹿之助など)を支持している。それは、次のような要因も無視出来ないからだ。
 2004年に東京江戸博物館で行われた『新選組!展』の図録には、土方が故郷に送った慶応元年9月9日付け書簡中にあったものの写しと思われる行軍録の写真が載っている。だが行軍録というものは、これより前にもあった。元治元年のものである。そしてこれに付随して、「軍中法度」なるものが作られたようだ。実際に、新選組内で公表され運用された「法度」なのか、単なる土方個人の試作なのかは不明である。しかし、この「法度」中に

「一、組頭討死候時、その組衆、その場において死戦を遂ぐべし」

という一条が存在する。
 これは、どういう事かと言うと、戦中に「組頭」が死んだら、その部下は死ぬまで戦わねばならない、という事である。要するに、土方はそういう思考・感性の人間であったということなのだ。
 この法度における「組頭」という単語は、新選組の隊士達を十組程度にグルーピングした時、一つのグループのトップという意味であろうと推測できるが、これを新選「組」の「頭」=近藤と置き換えると、土方がいかなる心情で北上転戦して行ったか察するのはそう難しくはないだろう。
 近藤というトップが死んだ時点で、土方には「死戦を遂ぐ」ことが課せられたのだ。それは誰でもない、自分自身が決めた掟だったからだ。(end)



<このコラムはブログに発表したものを修正加筆再編集しました。>


<参考図書>
『明治維新と新選組』(NPO法人 日野・市民自治研究所)
『新選組!展 図録』(NHK/NHKプロモーション)



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作成日 2006/01/26

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