【その三】武人か武士か?

 歳三が十七、八歳の頃、庭に竹を植えてこういったという。「我、将来武人となりて、名を天下に挙げん。」と。

 上記は 土方 愛(めぐみ) ・著『子孫が語る土方歳三』(新人物往来社)からの引用であるが、新選組や土方歳三に関する書籍にて頻繁に語られる土方歳三の「決意表明」と一般に解釈される逸話である。
 一方、こんな見方もある。以下、 神津 陽 ・著『新選組 多摩党の虚実』(彩流社)から引用する。

 さて、土方家伝承は「自分が目が見えたら武士を目指した筈だと繰り返す長男の為二郎の願望が、気の合った歳三への期待につながった。歳三は自分が植えた矢竹が大きくなる頃には必ず武士になるのだと念じていた」と伝える。まず百姓も出来ぬ穀潰(ごくつぶ)しが身内に二人もいれば、跡取りの次男喜六の苦労は大変だったろうと同情する。また武家が自家用に矢竹を植えて弓矢を作ることはないから、矢竹を植えて剣術に励んでも武士になれる訳はない。矢竹は製作者の手を経て武家の必需品の弓矢となるのであり、歳三が矢竹を植えたのは武士を目指したというより、弓矢制作の方に何らかの関わりがあると考える方が順当だろう。

 土方 愛と神津 陽は共に、土方歳三(以下、歳三と略す)が実家の庭に竹の一種(*1)を植えたエピソードを書いている。一読すると同じ主旨のような印象を受けるが、両者の著述には微妙な違いがある。
土方 愛が記すのは、歳三が武人と成り名を挙げたいと語ったという事だけであり、彼の本質的な願望が「武人に成ること」の方にあるのか、「名を挙げること」の方にあるのか判然としない。
一方神津は、長兄・為二郎の影響により歳三が武士になりたいという願望を持っていたという土方家伝承について述べている。ここでは、「武士に成ること」のみが願望として語られ、「武士」と成ってどうしたいのか?というところまでは語られていない。
また、土方 愛の著述では「武人」であるのに対し、神津の方では「武士」である。

 果たして、歳三が成りたかったものとは「武人」なのか、「武士」なのか?この似た響きを持つ二つの言葉は、それが意味するものにおいて若干の差異がある。
「武人」とは「武士」も含めて「武」に関わる者を意味し、軍人や武官を表す単語である。軍人には勿論指揮官から兵まで含まれる。一方で、「武人」には「つわもの」という意味があり、武芸家・武道家などに対しても「武人」という表現を使う場合がある。
「武士」の場合は「武人」よりもっと意味合いが特定される。大坂夏の陣が終わるまでは「武士」はまさしくイコール「武人」であった。しかし、その後の太平の御世となっては、「武士」は単なる「役人」であり、戦闘する事が仕事ではなくなった。「武士」とは階級・身分を表す単語となったのだ。
 現代に置き換えてみれば、自衛隊事務職の人間が役所仕事や議員の仕事をやっているようなものである。自衛隊員ではあるが、戦車にも戦闘機にも戦艦にも乗っていない。
同様に身分・階級の名と実際の仕事がイコールではない事例としては、英国の貴族の一種にある「ナイト(=騎士)」というものも該当するだろう。現在でも貴族制度が存在する英国において、現代を生きるナイトの人々はどんな事をしているのか?別に近衛兵指揮官を世襲しているわけではないのだ。不動産業であったり、ホテル業であったり、およそ「騎士」という名からは想像出来ないような一般的な仕事をしている。要するに、江戸時代の「武士」同様、現代英国の「騎士」は、その名だけが身分を表すものとして残ってしまったと言える。

 しかし、江戸時代の「武士」と現代英国の「騎士」は全く形骸化した存在というわけではない。両者はある種の忠誠心を持つことを求められる存在であるのだ。君主あるいは国家というものに対する忠誠である。
例え市井の人間がそのような忠誠心を持たなかったとしても、彼等は「武士」や「騎士」がそれを持つのは当然と考え、またそれを是とするのである。市井の人々だけでなく、君主そのものが、彼等を何をして「武士」あるいは「騎士」とするかと問う時、その根源は忠誠心である。武力や戦闘を行う事は忠誠心を補完するものに他ならない。「武士」にしろ「騎士」にしろ、「武」や「騎」よりも「士」である事の方に重点があると言うべきか。
ゆえに、徳川の御世において、あるいは現代英国において、「武」や「騎」が意味をなさなくなっても「士」の部分を以って、彼等に地位を保証したのである。
 「士」とは"男"という意味であり、その御時世の男子のあるべき姿、つまり学問や技芸に優れ仕事ができ、かつ人格者であるということの中に、封建体制の江戸時代(あるいは戦勝国でいまだ王国である英国)では、当然の如く「君主・国家への忠誠」や臣としての心得というものが含まれている。
 また、面目を失う事を極度に嫌い、如何にお互いの面子を損じない形で物事を運ぶか苦心するという点では、「武士」も「騎士」も真に"男"性性に支配されている。「面目が潰れる=男が立たない」という認識が隅々まで行き渡っている世界だからである。
 つまり、やっている事は役人であっても、単なる事務ロボットだったというわけではない。佐伯真一は『戦場の精神史 武士道という幻影』(NHKブックス)の中でこう述べる。「 名誉を失うよりも戦いや死を選ぶ精神は、平和な江戸時代の、儒教道徳を身に付けた武士たちにも受け継がれているし、さらにいえば、日本の武士だけのものでもない。ヨーロッパの騎士たちが育てた文化も、侮辱に対しては過敏に反応し、名誉を守るための決闘などを好む面を持っていた。
つまり、くどくなるが、江戸時代の「武士」には役人業、政治家業といった実務とは別に、いわば伝統継承者としての「武」の精神や儒教的「士」の本分を持つことを求められたのである。それは「敵 」をどれだけ破ったかによって出世が決まる、ある意味即物的な「武人」の世界よりも、ぐっと観念的であった。
 しかし、歳三の少年時代の頃になると、すでにその観念は一人歩きし、山鹿流兵法(*2)のように教養哲学として武士に崇められるものになってしまっていた。それは日々の役人的武士生活とは乖離した一種の机上論であった。

 再び本題に戻ろう。歳三が成りたかったのは「武人」なのか「武士」なのか?
ここで一つ気に掛かる事が有る。神津が言う「 矢竹を植えて剣術に励んでも武士になれる訳はない。 」という一文である。そして、これは神津の言う通りなのである。 矢竹を植えれば武士になれるのか?否、成れるはずがない。本当に武士に成りたいのなら、矢竹を植えるより勉学に励むべきである。 前記したように、当時の武士は役人稼業だからである。矢を射る機会などないのである。
 にも関わらず、歳三は何故、「矢竹なるもの」を植えたのか?これは土方 愛の記述が示唆している。そう「武人」なのである。歳三は古の武人が敷地内で弓矢用の笹竹を植生していた事を頭に思い描いていたのではあるまいか。
当方は神奈川県内で矢竹が自生している場所を見たことがあるが、それらは概ね源平時代〜中世間に侍が居住していたと想定されている場所である。たいていは源氏や鎌倉幕府、あるいは後北条に関するエピソード付きである。
歳三はそういった古の話を知っていたのだろう。その可能性は極めて高いと思われる。前出の神津はこう著書に記している。「 多摩には平安時代から<武蔵七党>と呼ばれる武家集団があり、豊臣秀吉に滅ぼされた八王子の後北条氏(*3)に仕えていた<三沢十騎衆>も武家従者集団の残党であり、その頭目は土方氏だった。戦国時代の刀や武具を保持したままの武家集団が後北条氏敗北後に刀狩りを経ぬまま帰農し、名主層に以降した後に徳川氏が入ってきたのである。石田(*4)の土方氏の出自はよく分からぬが、三沢(*5)は全国に散在する土方姓の総本家筋である。
 この神津の伝える話はまさに大坂夏の陣以前の坂東武者が跋扈した時代のことである。武人が真に武人であった時代、敵の首を挙げる事がそのまま名を挙げる事に繋がった頃の話である。そして冒頭で土方 愛の著作から引用した歳三発言は、この時代の「武人」の在り方とピッタリと一致する。  逆に言えば、そのくらい冒頭の歳三発言は時代錯誤であるということだ。歳三17歳の頃に、戦はない。仮に黒船来航以降に歳三が植えたのだとしても、ならば「武人」や「武士」になることより、「夷敵」を追い払う事を想起させるような発言であって良いはずだ。しかし、歳三発言には黒船どころか中世まで遡るような懐古趣味に溢れている。

 それらを鑑みると、果たしてこの武人になって名を挙げたいという発言は、歳三が真面目に発言したものなのだろうか?当方はどうもこの歳三発言は彼一流のジョークだったのではないか、という疑念を持っている。武功によって「天下」に名を挙げる機会自体が当時、なかったからである。(勿論、「天下」ではなく、「日野界隈」で名を挙げる機会はいくらでもあった。)
 そもそも、矢竹なるものの苗はどこで手に入れたのか?もともと土方家で植生していたものを歳三が株分けして植えただけなのか?それとも、歳三がどこか他所から入手したものなのか?案外、この苗の入手先が「武人」と関係あるのではないかと推測する。矢竹が植生している場所というのは、人為的に植えられたり、人の手によって保護されてきた歴史がある場合が多い。勿論、そういった歴史があるのは、それら矢竹を弓矢として使用する事を想定していたからである。
つまりこう考えることも出来る。天下に名を馳せた武人にまつわるエピソードがある矢竹植生地から、歳三は株分けして持ち帰り、自宅の庭に植えようと穴を掘った。すると、兄・喜六に聞かれる。
「トシゾー、おめェ、なぁにやってんだ?穴なんか掘ってよぉ。」
それに歳三はこう答える。
「これを植えようと思ってよぉ。ほぉら、あの昔の侍の話がある場所知ってんべぇ?あそこからちっとばかし拝借して来てな。これから植えんだよ。俺もお侍にでもなって、天下になめェをあげてェもんだァな、ハハハ。」
などという会話が、意外と歳三「決意表明」の元ネタなのかもしれない。

 一方の「武士」に成りたいという神津の話もどうなのだろうか?神津が述べるまでもなく、矢竹を植えただけでは武士にはなれないのはわかりきったことである。真に武士になることを切願するのなら、それ相応の努力が必要であるとの認識は当時の人間も持っていたはずだ。だからこそ、塾や学校に入った非武士階級の子弟が存在したのだし、非武士階級出身者が武家と縁組したのだ。しかし歳三がそういった武士になるための努力をしたという痕跡は窺えない。
つまり、確実に一つ言えることは、歳三が「武士という身分に成る」という事を本気で目指していたわけではないということである。「何がなんでも武士になってやる!」とがむしゃらに邁進していたわけではないということだ。
 それとは裏腹に、矢竹のエピソードが示すように、古の「武人」への憧憬を歳三は隠さない。彼は、かの地に伝わる坂東武者達の逸話や古い武具などと接した少年時代を送ったのであろう。勿論、盲目の長兄の影響もあったのかもしれない。歳三の中で確固として存在した「武」を尊ぶ者の姿は、もはや役人仕事に忙殺される当時の武士階級にはなかったのではないか。
歳三が本気で武士になるための努力をしなかった背景にはそんなこともあったのかもしれない。

 運命は異なもので、歳三には武士階級に上がる道が開ける。ここで歳三は彼なりの「武」人、あるいは「武」士としてのあり方を模索し始めたように見受けられる。身分・階級としての武士ではなく、あくまで彼自身の中にある武士像に忠実であろうとしたのではないか?
少なくとも、彼の執着が「武士身分の獲得・保持」にあったわけではないという事だけは、彼の生涯を俯瞰して見た時、ハッキリと伝わって来ることなのである。それは、途中で逃げ隠れてしまえば、地球上のどこかで生き永らえる可能性もなかったわけではないのに、忠誠心や武士の本分を捨ててまで生き残ろうとはしなかった事からも覗える。
 まるで、大坂夏の陣以前に戻ったような幕末の動乱。歳三は古の武人の如く、敵を打ち破る姿勢を崩さない。それは、共に修羅場をくぐり抜け先に逝った友へのせめてもの忠義(*6)であった。そんな生き方、死に方こそが歳三が憧れた「武」のスピリットそのものだったのかもしれない。

 痩我慢は武人の精神である。必敗を期しても敵と戦うのが武人たる者の意気地である。
                  ───福澤諭吉『痩我慢の説』




 その一、その二、そして今回と渡って、〔新選組という組織は幕末世情のドサクサに紛れて身分上昇を図った粗暴な集団である〕という皇国史観的、あるいは西南雄藩討幕派史観的新選組観に異を唱えてきた。
 この新選組観の根底には、近藤 勇や土方歳三が農民階級出身であったという事柄に基づく階級差別感情あるいは農民蔑視とでも言うべきものがあるように思えてならない。
要するに「百姓からその上の身分になりたかっただけだろう?」という下世話な発想である。なるほど、武士階級の人間は「百姓は武士になりたくてウズウズしている」と思うのは当然だろう。自分達が地位が上であるという確固たる自信と、人間は皆、上を目指すものだという思い込みがあるからである。
 しかし、近藤にしろ、土方にしろ、その足跡を丹念に追って行くと、彼等は決して「身分としての武士」に成る事を本願としていた人々には思えない。「出世したかっただけ」というような世俗的かつ利己的な欲求に付き動かされていた人々であるとも思えない。もしその様な人物達だったとしたら、松本 順(松本良順)らがあれほどまでに顕彰活動をしなかったであろう。
 松浦 玲 宮地正人は彼等は本来、政治結社を目指した草莽集団であったと論じている。一方、神津 陽や 小島政孝は多摩の地縁的なものから浪士組へ参加せざるを得なかったと論じ、 佐藤文明はさらに踏み込んで多摩代官との関連性を推測している。
彼等の論説に共通しているのは、近藤や土方が出世や身分上昇といった私益追求を出発点としているわけではないという点である。
 新選組を私益追求集団と薩長土肥勢力が認定したのは、晒し首にされた近藤の罪状書から読み取れる。しかし、これは薩長土肥勢力の自己正当化のためではなかったか。徳川の威を借り自己の利益を追求した暴れん坊を退治したのだ!という自己正当化である。
 新選組伝説の始まりは、この自己正当化の欺瞞に気付いた江戸の人々の近藤語りであった。言論の自由が確立していない軍国主義の日本であったが、新選組は講談となり、 子母澤寛 の著作を経て確固たる民衆のヒーローとなる。
 奇しくも、歳三の言通り、天下に名を挙げたのだった。(end)

*1… 歳三が植えた笹竹は「矢竹」と伝えられるが、土方 愛は篠竹種である事を著書で示唆している。植物学上、矢竹と篠竹は種が違う。しかし、篠竹が弓矢に使われないわけではない。
*2… 兵学者であり儒学者であった山鹿素行が兵儒一致の教義として「孫子」等を基に編み出したもの。単なる軍学ではなく、武士の倫理を説いている。
*3… 北条早雲の孫・氏康の三男である氏照は現在の東京都八王子市丹木町にある滝山城の主・大石氏の養子となり、八王子城を本拠とした。
*4… 現在の東京都日野市石田辺り。歳三は石田出身。
*5… 現在の東京都日野市三沢辺り。
*6… 東京・高幡不動に建つ「殉節両雄の碑」には「我昔日所以不与昌宜倶死者期有以一雪君之冤也今如此唯有死耳即処寛典我何面目復見昌宜於地下耶」と歳三が語ったと記されている。昌宜は近藤勇のこと。


<既出の著書以外で参考とした書籍&HP>
関 幸彦『武士の誕生 坂東の兵どもの夢』(NHKブックス)
『明治文学全集8 福沢諭吉集』(筑摩書房)
『少年小説大系 別巻2 少年講談集』(三一書房)
『2004年「新選組」展 図録』(NHKプロモーション)
『高尾通信』( http://www.takaosan.info/index.html )
『風雲戦国史』( http://www2.harimaya.com/sengoku/index.html )



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作成日 2005/06/9

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