【そのニ】試衛館の虚像

 近藤勇や土方歳三、沖田総司、井上源三郎らが修めた天然理心流。その流派の総本山とでもいうべき道場・試衛館は江戸市ヶ谷柳町(やなぎちょう)「市ヶ谷甲良屋敷」にあったと新選組研究家の あさくらゆう は主張している。これは現在の東京都新宿区柳町25番地に相当する。(他にも諸説あるが、土方歳三の実姉の子孫である 佐藤あきらの著書にも「柳町」と出てくるので、あさくらの説を今回は採用する。)
 幕末の江戸三大道場の一つ、神道無念流の練兵館は現在の靖国神社敷地内、つまり千代田区九段北3丁目辺りにあったと言われている。「甲良屋敷」の試衛館からは2km程度離れた場所である。小説等では、試衛館に道場破りが来ると、この錬兵館へ助っ人を頼んだと出てくる。
 土方歳三の実姉の嫁ぎ先である佐藤家、通称・下佐藤家の隣家であり下佐藤家の親戚であるもう一軒の佐藤家、通称・上佐藤家にルーツを持つ 佐藤文明 が書いた『多摩の風土が生んだ志士たち 新選組』によれば、それは誤解なのだそうだ。しかし佐藤は、近藤やその義父・近藤周助が練兵館に時々あいさつに行っていたと述べている。
これら佐藤の述べている事が何に依拠したものなのか不明であるが、下佐藤家の隣家である上佐藤家の人間も天然理心流門人であった事を考慮すると、上佐藤家や日野に伝わる伝承の類に依拠しているのかもしれない。ともかく、佐藤は試衛館々主と練兵館々主の間に交流があった旨を述べており、これは見過ごしならない事柄である。
 では何故、あいさつに行っていたのか?練兵館の館主・斉藤弥九郎は多摩の代官である江川英龍(太郎左衛門/担庵)の盟友であった。
神道無念流々祖・福井平右衛門の弟子・戸ヶ崎熊太郎から道場を引継いだ戸ヶ崎の弟子・岡田十松に学んだ斉藤であったが、その岡田の道場・撃剣館の門人の一人が江川であった。(ちなみに、永倉新八も岡田の門下。)
意気投合した二人は終生の友となる。「江川大明神」とまで言われた名代官・江川にとって、斉藤は単なる友という範疇を越え、職務の良き協力者となる。近藤親子があいさつに行っていたのは、剣術の指導者という同業者だったからであろうか?否、斉藤が多摩の代官の腹心であったからであると、前出の佐藤は述べている。
 どうして多摩代官の腹心と交流せねばならなかったのであろうか?それは勿論、天然理心流が多摩地域を基盤としているからだというストレートな理由が導き出されるのは当然だが、もっと踏み込んで言えば、天然理心流のスポンサーが代官配下の名主層であったためではなかろうか。
斉藤弥九郎は現代に置き換えれば、その会社(=天然理心流)の大株主(=名主層)である人物の上役(=江川)の腹心というような感じである。会社経営者(=近藤親子)としては株主の意向は無視出来ないだろう。株主が「上役の腹心と親交してくれ!」と頼めば断れまい。
但し、実際に門人の名主層からその様な依頼が近藤親子へ為されたという旨を記した文献は発見されていないので、近藤親子が錬兵館へあいさつに行く理由は今のところ各自推測するしかない。
 しかし上記の事柄を顧念すると、道場破りの度に助っ人をわざわざ2km先の錬兵館へ頼みに行っていたという説話も、館主同士間で何らかの約定を結んでいたからではないかと勘繰りたくなる。道場破りを追い出した後は助っ人達を酒肴でもてなしたという話だが、道場破りに対応したくない試衛館側の思惑だけで助っ人を依頼していたというより、酒肴にありつきたいという錬兵館門人側の思惑とうまく一致したのでは?、との憶測も出てくる。
 この助っ人メンバーの中に後の子爵・渡辺昇(のぼり)がいたのだが、渡辺と新選組の因縁話については、また別の機会にしたい。
 それはともかく、仮に錬兵館門人側の思惑があったとして、そのような助っ人稼業もあくまで斉藤弥九郎の認知下にあったとみて良いのではないか。そう思えるのは、単に斉藤と近藤親子が交流していた可能性があるというだけの理由ではなく、助っ人をしていたのが渡辺という塾頭の地位にいる人間だったからである。
塾頭を仰せつかる人間が他所へ助っ人に行って何かあったら、立場を悪くするのは斉藤だろう。そのような事を考慮すると、助っ人に行かせる側の立場としても、試衛館に行かせるのは安心できる事情があったのではないか?それはやはり、天然理心流と多摩の結び付き、多摩と江川、江川と斉藤というそれぞれの確固たる絆に立脚していたのだと推測できる。
つまり佐藤文明の言に反して助っ人説が事実であったと仮定しても、導き出される事はやはり試衛館と錬兵館の交流の根底にある特殊な関係性なのである。
 この特殊な関係性が試衛館と錬兵館の交流の基礎となっていたであろうという事は既に説明してきたが、もう一点考えなければならない事がある。それは錬兵館から助っ人に来た者達をもてなした酒肴の費用や、時に助っ人達に渡していたという小遣いの事である。
 小説などで流布された試衛館のイメージとして、「貧乏道場」というものがある。実際に近藤勇は実家宛に借金を無心する手紙を書いている。しかし、その一通を以って試衛館に「貧乏道場」の烙印を捺してしまうのは早急ではないだろうか。
 実家に借金を申し込めるということは、少なくとも近藤自身の実家は喰うに困るような家ではないという事である。近藤勇の義父・周助の実家も小山村三ツ目(現・町田市小山町)の名主・島崎(嶋崎)家であり、門人には小野路村(現・町田市小野路町)寄場名主(*1)の小島鹿之助や蓮光寺村(現・多摩市蓮光寺)名主にして大惣代(*2)の富澤政恕(まさひろ)など富裕農民(*3)が多かった。
つまり、経済的援助を得ようと思えば得られる状態であり、実際に援助を受けていたと推測される。と、言うのも、前出・佐藤の著書には、これまた依拠不明ながら、試衛館自体がこれら富裕農民達からの寄付によって開設された旨が記されており、「試衛館は貧乏道場などではない。確実に豊かさを増している多摩の有力な資産家たちを門人として、あるいはフランチャイズ道場のオーナーとして、抱えているからだ。この有望さは江戸三大道場以上のものだろう。」と述べている。(*4)
 つまり、助っ人をもてなす酒肴の費用や小遣いも捻出しようと思えば捻出できる状況ではなかったか?いや、捻出できたからこそ、渡辺昇らも助っ人に来たのではあるまいか?それを「貧乏」とするのは、何か違和感を感じる。勿論、試衛館が裕福であったと主張するわけではない。しかし、「貧乏」の部分を殊更強調せねばならない別の意図の存在が、「試衛館=貧乏道場」という図式を広める原因となったのではないか。
「貧乏道場」説が広まった背景には、小説家や脚本家などが創作上、そうした方がよりドラマ性が高まるとの判断から、故意に「貧乏」の部分を強調したということがあると思われる。
前出の佐藤は浪士組参加の理由が「食い詰め浪人が一旗揚げるため」であるという一般的に広まっているイメージについて、疑問を呈している。なるほど、食い詰め浪人達がたむろしている道場は「貧乏」でなくてはならないだろう。しかし、本当に「一旗」揚げたかったのだろうか?浪士組に参加表明した時点では、京都残留も会津公の御預りになる事も予想出来なかったはずだ。
 このコラム 「その一」でも書いたが、新選組のイメージとして定着している「武士になりたい」あるいは「一旗揚げたい」というものは、〔新選組という組織は幕末世情のドサクサに紛れて身分上昇を図った粗暴な集団である〕という官軍あるいは明治新政府側の意図によって流布されたイメージを奇妙にも踏襲している。
 一般に広められた試衛館像は創作物の作者によって巧妙に重要な部分を殺ぎ落とされてしまったのではないか?天然理心流も佐藤によれば神道無念流と同規模の勢力であったという。柳剛流、北辰一刀流に次いでいたということだ。
柳剛流も多摩系の流派であり、松平主税介はこの流派の使い手であった。そして、講武所の剣術師範役であった。天然理心流からも小野田東市が講武所の剣術師範役をしており、創作物中にある「天然理心流が弱小流派かつ田舎剣法であるがゆえに蔑まれていた」というような主旨の表現は、正確とは言えないだろう。天然理心流には、福田平馬(幕臣)・寺尾安次郎(田安家邸臣)・川村正平(一橋家邸臣・旗本)などの非農民の門人も存在した。
しかし、こういった事は何故か創作物では取り上げられない傾向がある。やはり、既存のイメージに合わないからであろうか。
 なお最後に、「一旗揚げたかった」説に疑問を呈した佐藤が試衛館門人の浪士組参加について、前出・江川英龍絡みの興味深く理に適った説を著書にて展開しているので、御一読される事をお薦めしておきたい。(end)

*1…村々が集まって作られた組合の中心的な村(=寄場)の名主。
*2…村々が集まって作られた組合の役員の一種。大代表。
*3…いわゆる豪農。幕末になると、豪農とそうでない農民の差が広がり、
   豪農達は経済的に潤い、貧農は田畑を手放す事もままあった。
*4…門人・富(冨)澤政恕は文久元年(1861年)10月3日の日記に「今日近藤
   勇試衛場英続講世話人日野宿玉屋方江集会」と書き残している。
   「試衛場」が試衛館の意であれば、試衛館を存続させるための資金
   集め集会が行われていたという事になる。

<追記>最近、天然理心流門人で土方歳三の義兄にあたる佐藤彦五郎がつけていた日記を翻刻した『日野宿叢書第四冊 佐藤彦五郎日記 一』が東京都日野市より発行された。
 これの「万延二辛酉年 正月廿九日、曇、」の項に、「近藤勇方ニて寄合稽古いたし、斎藤矢(弥)九郎門人拾五人、其外櫛節(ママ)富山等之門人、集会稽古有之候、」との一文があった。この「斎藤弥九郎門人」とは錬兵館の門人を指すと思われるが、試衛館門人と錬兵館門人15人による寄合稽古というものがどういった経緯で行われるに至ったのか、そこまでは詳しく書かれていなのでよくわからない。
 しかしそれを謎解く鍵として、佐藤彦五郎が「錬兵館」や「神道無念流」といった言葉を使わず、あえて「斎藤矢(弥)九郎門人」と記していることに注目すべきだろう。佐藤にとっては、「錬兵館」や「神道無念流」よりも「斎藤弥九郎」にこそ意味があったのではないか。そこから考えられるのは、やはり、斎藤と多摩代官・江川英龍、江川と多摩人という図式ではないだろうか。
 佐藤日記の上記一文は「助っ人」という形ではなく「寄合稽古」という形で、斎藤門人達と試衛館が交流を持っていた事を記録しているという点で、非常に貴重である。(2005.7.11)

<既出の佐藤文明著書以外で参考とした書籍&HP>
村上 直・馬場憲一・米崎清実『多摩の代官』(たましん地域文化財団)
『坂東千年王国』 ( http://www.ne.jp/asahi/hon/bando-1000/index.htm既に閉鎖 )
『歴史企画研究』 ( http://www.geocities.jp/you_funnyara/index.html既に閉鎖 )
『天然理心流剣術誠衛館』 ( http://www.geocities.jp/ksskk546/page148.html既に閉鎖 )


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作成日 2005/05/30

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