【その一】西村兼文の悪意が生んだ司馬遼太郎の近藤勇観

 三谷幸喜が新選組局長・近藤勇を題材に大河ドラマの脚本を手がける以前、大衆が持つ近藤のイメージというものに、それが形づくられていゆく過程で最も影響を与えたのは作家・ 司馬遼太郎かもしれない。
司馬の小説『燃えよ剣』は土方歳三を主役に据えたということもあり、主役を引き立てる反動か、近藤の描かれ方はあまり良いとは言えない。それまで 大仏次郎子母澤寛が描いてきた近藤像とはやや趣が異なっている。大仏や子母澤は近藤を「人物」として描いていたが、司馬は逆に近藤の俗な面を強調している。同小説ではそれが土方の有能さやスタイリッシュさと対比する効果を生んでおり、結果的に読者に土方歳三という男の持つ美学を印象付け、小説をよりドラマティックなものへと昇華させている。
しかし一方で、その有能でスタイリッシュな土方が何故俗物(という印象をこの小説からは受ける)近藤をあれほどまで支えようとするのかという疑問が生じる結果となり、司馬が描く土方というキャラクターの整合性に疑問が残ってしまう。

 司馬遼太郎は近藤を何故あのようなキャラクター設定にしたのであろうか?実在した人物である以上、小説というフィクションであれ、その設定には実在した近藤勇への司馬なりの主観が投影されているはずである。司馬は一体、近藤をどの様な人物であると認識していたのであろうか?
それをを探る上で重要な手がかりになると思われる文章がある。司馬の『歴史と小説』というエッセイである。その一部を紹介する。

 近藤は翌日、奉行所に出頭し、右の次第を届け出て去ろうとした。(中略)内山は、市政官として当然のことをいった、「すでに数人の死人が出ている以上、届け放しではすまされぬぞ」 近藤の顔に怒気がのぼった。なぜかれが怒ったか推察するに、内山は、新選組を「浪人」とみたのである。(中略)
 席を立って奉行所を出た。京都にもどってからもこのときの不快が消えない。十ヶ月も憎み続けたあげく、元治元年五月、沖田総司、原田佐之助、永倉新八、井上源三郎の四人の腹心をよんで、「大坂へくだって内山を斬れ」と命じている。ここに近藤の本質がある。近藤が幕府に対する純粋な忠誠心で働いているとすれば幕吏である内山彦次郎を斬るはずがない。かれは病的なまでに権威のすきな男で、そのくせ百姓あがりであった。(後略)


 この文章は司馬の近藤に対する見方を端的に表している。司馬は近藤を「病的なまでに権威のすきな男」であると認識しているということである。思えば、前出の『燃えよ剣』における近藤のキャラクター設定はまさにこの「病的なまでに権威のすきな男」そのものだ。つまり、あの小説の近藤像は司馬の近藤勇観から導き出されたものなのである。
 しかし、ここに大きな間違いがある。司馬が「ここに近藤の本質がある」と示す、 内山彦次郎暗殺事件 そのものが新選組の仕業ではないのである。何ということであろうか司馬は、新選組および近藤勇に故意に着せられた濡れ衣あるいは冤罪とでもいうべき事件を基に近藤勇を判断していたのである。

 大河ドラマでも取り上げられた内山彦次郎暗殺事件。ドラマでは新選組によって内山は殺害されたが、内山暗殺犯を新選組だと断定したのは西村兼文の書いた『新撰組始末記』である。おそらく司馬も新選組小説を書くにあたり、当然西村の書を読んだのであろう。しかし近年、研究の前進により西村のこの断定そのものに疑いの目が向けられているのだ。
元・神戸大教授の 野口武彦は著書『新選組の遠景』の中で一章を割いて新選組犯人説を明快に否定している。内山が暗殺された日に新選組は大坂にはいなかったのだ。
また、元・東大史料編纂所教授で現・国立歴史民族博物館館長の近代史学者・ 宮地正人は著書『歴史のなかの新選組』の中で、「 西村の著作には天皇主義史観から、近藤や新選組を天皇(*)に敵対した賊徒・逆徒として非難攻撃する姿勢が露骨に出ており、それだけではなく、西村自身の判断により彼の著作の中で新選組に関する事実の創作を行っている疑いがある」と書いており、その好例として大坂の力士達との喧嘩を奉行所に届けた件と内山彦次郎暗殺事件を取り挙げている。(*は引用者注:この場合の「天皇」とは明治天皇に限定される)
そもそも奉行所に届けを出したのは近藤から依頼を受けた大坂の町人と壬生浪士組(新選組の前身組織)における最高責任者とでも言うべき筆頭局長・芹沢鴨であり、近藤自ら奉行所に出向いて届け出たわけではないということを宮地は諸史料を基に導き出したうえで、西村の記述が創作である可能性を指摘している。
要するに、司馬が上記のエッセイで論じた「近藤の本質」の礎となっている事柄そのものがでっちあげの話である可能性が高く、そのようなでっちあげ話を元に導き出された「近藤の本質」は前提条件が崩れてしまった以上「近藤の本質」とは全く別物の単なる司馬の思い込みである可能性が出て来てしまったのである。
 こうなってしまうと、誤った情報を元に自身のイメージが形成され流布されてしまった近藤勇が何とも不憫で可愛そうに思えてくるが、重要なのは、単に近藤観に留まらず、司馬の新選組観、或いは土方観にもこの「近藤の本質」が影響を与えている点である。
司馬はこの「近藤の本質」、つまり司馬の言うところの「幕府に対する純粋な忠誠心で働いている」わけではない=幕府の為に働くのは農民階級脱出のため=武士に対する強烈な憧れ、という図式のようなものを自身の脳内で完成させ、それを重要視してしまっているが故に司馬本人はそのような意識があるのかどうかはわからないが、〔新選組という組織は幕末世情のドサクサに紛れて身分上昇を図った粗暴な集団である〕という皇国史観(或いは 家近良樹が言うところの西南雄藩討幕派史観)が作り出したある種の新選組のイメージの再生産を行ってしまっているのだ。これは逆に言えば、新選組は政治思想的動機を持たない集団であると規定しているようなものであり、事実、司馬は同様な趣旨の発言を過去にしているのである。

 前出の野口武彦が「司馬史観とは美学史観である」と看破したように、司馬の紡ぎ出す時代小説世界は美という一本の背骨が通っている。故に司馬作品は熱狂的支持者を生み出すのである。おそらく、司馬の美のアンテナに「武士に対する強烈な憧れ」という部分がひっかかったのであろう。それが士道に徹するクールな司馬版土方歳三を生んだのである。  しかし、司馬が前提としていた「近藤の本質」自体がでっちあげ話に依拠している以上、「武士に対する強烈な憧れ」もまた検討すべきではなかろうか?
(余談であるが、土方の実家に植えられている土方が武士になる事を誓って植えたという矢竹であるが、矢竹を敷地内に植えるという事自体は別段めずらしい事ではなく、「武士になる」うんぬんに関係なくごく自然に矢竹を植えている家は土方の実家以外にも土方家周辺にはあったようだ。)
 司馬の小説はフィクションとして完成している。しかし、それを事実であると思いこむ人や史実の如く扱う人が後を絶たない。内山暗殺事件に至っては何ら検討される事なく新選組が犯人であると記している書物を吉川弘文館や山川出版社のような高名な歴史系出版社でさえ発行している現状を前出の野口は嘆いている。

 近藤や新選組に着せられた濡れ衣が現代にまで尾を引き、かつ未だその影響下に人々があるのかと思うと、何ともやりきれない思いを抱くのと同時に、そういう気の毒な宿命のようなものが案外、新選組の人気を形成する一要素となり、新選組に対する判官びいきを無限大化させているのでは?と思う。言い換えれば、西村兼文は彼自身の意図に反して新選組のスター化に貢献してしまったということだ。貶めれば貶めるほど、それが別の現象を生む。何という皮肉であろうか。 (end)


<典(ふみ)氏とのやりとりからこのコラムの原案は生まれた。典氏ならびに、二人のやりとりを見守りつつ承諾してくれたクロアゲハ氏には、今回、この様な形でweb上にup出来たことの御礼を申し上げたい。>



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作成日 2005/05/15

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